「味郷」は1970年(昭和45年)8月、現在の場所に開店しました。しかし今では、この店の前身を知る人も少なくなりました。昭和30年代、当時駅前通りに「松北劇場」という映画館があり、現在の「味郷」の店主の先代が、この映画館を小屋借りで館主をしていたものでした。昭和36年、館主の妻がこの映画館に隣接して、ささやかな食堂を開店し、「おぶせ食堂」と名付けました。今の世の人たちには、想像もできないことでしょうが、娯楽といえば映画、文化といえば映画、そんな一時代がありました。昭和三十年代を全盛期とするこの時代、人口一万足らずのこの小さな町で当時、昼夜上映は日曜だけ、平日は夜だけ上映、という松北劇場へ、年間58,000人の人々が足を運んだものでした。
松竹、大映、東宝、東映、日活、新東宝、六社の製作会社から作り出された映画が、全国7,800館の大小映画館へ、系列の映画館を通してかけられ、人々を楽しませていた時代でした。北信でも、長野に16館、須坂4、中野2、飯山2、山之内1、小布施1館という賑やかさだったのです。
この、映画館へ来るお客さんへ、お酒類もふくめ飲食を提供できるようなサービスも必要では? という考えから、館の横へ併設する形で店づくりがなされ、ラーメン、丼類、アルコールも含めた飲み物類をメニューにしました。ラーメン50円の時代です。
映画は、普通興業の番組で大人55円、学生40円でした。本格的な自動車時代やテレビ時代は予感されつつあったものの、もう一歩、という寸前の時代でした。
当時、役所から促されて飲食店組合を設立したのですが、旅館をふくめても小布施町で店数7軒という組合の発足でした。現在100店舗を超えている時代から見ると嘘のようです。
今は「味郷」の看板になっているカツ丼ですが、当時の「おぶせ食堂」のメニューの中にもちゃんとあったのです。ところがこれも今の人たちには想像もできないでしょうが、一般食堂で、カツ丼180円は高級メニューに属し、日常生活の中では「ぜいたく品」と思われていたものでした。
店主としては、ゆくゆくは店の看板メニューにしたいという夢を抱いているのですが、世間の一般食堂メニューに対する「常識」からは、かけはなれた希望だったという、これもまた今では考えられない、時代の外食状況でした。
「松北劇場」にとって、思い出深い映画を幾つかあげればやはり、木下恵介監督の松竹映画『野菊のごとき君なりき』と、日活の石原裕次郎主演『白銀城の対決』でしょうか? 館にとって、だけではなく町にとっても『野菊の・・』は、ご当地ロケに全編千曲河畔や町内の神社、村山の小坂善太郎さんの生家、などが使われ、エキストラとして町民も多く出演していること。そして何よりも、今やすっかり失われてしまった奥信濃の、かつてあった自然や人々の暮らしぶりが、映画全編に美しく留められていることです。
『白銀城の対決』は、当時の映画産業へ鮮烈な新路線をもって参入した日活が、自社の代表スター石原裕次郎、北原三枝などを主演に、全編志賀高原ロケで作った映画でした。当時はトニー・ザイラーなど世界的なスターの人気とともに、スキーが、若者のステータスシンボルの如くもてはやされ、各地にスキー場の開発がすすんだ時代でした。長野電鉄が急ピッチで開発をすすめていた志賀高原も、スキーのメッカとして人気が高く、日活はここに目をつけて若者向けの自社映画を、志賀高原ロケで何本か作りました。
映画館にとって地元ロケの映画は、完成前から知られている作品ですから、お客の動員力も高くありがたいのです。この映画の時は、地元の映画館へエキストラを用意してくれとの要請があって、これも面白い体験の一つでした。雪と氷の蓮池にテント小屋の宴会場を作り、ロープウエー完成祝賀会の場面を撮る。裕次郎、三枝、長門裕之、南田洋子らとともに、ここへ列席する地元の村会議員役十数名、これをエキストラで。というわけでした。早速駅前通りの知り合いのおじさんたちにお願いして、志賀高原蓮池へかけつけました。カットは祝賀会のテントの外で、裕次郎と金子信夫だったかが何かの因縁で殴り合いのシーン。われわれはテントの中で南田洋子さんや日活の女優さんたちからビールを注いでもらってひたすら飲んでいればよろしい。という「映画出演」でした。
テレビの普及はいずれ映画産業に影響するだろう。と思ってはいたのですが、普及の速度は予想外の早さで驚きました。電機屋の店先に、力道山のプロレス中継を見ようと人々が群がっていた頃、一台20万円近いテレビがそう易々普及するわけがない。と、たかをくくっていたのです。調査では町内に最初の年5台ほど入りましたが、翌年はもう200何台、翌々年はほとんど全戸近い速さですすみ、映画の敵だとふんばっていた自分も抗しきれず、食堂へお客さん用にテレビを入れる始末となり、この頃から映画は斜陽産業と自認せざるを得なくなりました。
こうなると妻の内職程度ではじめた食堂が、今後の命綱という状況で、やがては映画館の閉館、新規に新しい場所での食堂開店、という方針で進むよりない。ということになり、三年計画で土地、資金、営業方針などに取り組みました。
昭和41年、映画館は閉館しました。長野をはじめ地域の映画館も次々閉館に追い込まれていきました。激しい時代の変化の中で、町自体の変貌も目をみはるものがあります。この変貌の波の中でまた、新しい活路も生まれ、「おぶせ食堂も」なんとか「味郷」に生まれ変わることができました。