小布施町の駅前通りに、映画館「松北劇場」があった昭和三十年代、館の横に付属して小さな食堂があった。「おぶせ食堂」と呼ばれていた。映画大人55円・ラーメン50円・カツ丼180円の時代であった。それは映画の全盛期、長野に映画館が16館、須坂4館、中野、飯山2館、山ノ内、小布施に各1館あった時代である。


大柳昭和20年8月、第二次世界大戦が、日本の敗戦、無条件降伏をもって終わった。同胞310万人の犠牲と、廃墟と飢えが残された。しかし八月の空は無限に明るく、生き残れた若者の心には、前途への希望があった。  こうして復興の日々が始まり十年、戦争で荒んだ人々の心に、新しい文化が希望を与えたが、その先陣を切ったのが、映画であった。往年の名優たち、新鮮なニューフェースたちが続々と銀幕に復帰、登場して人々の心をとらえ、邦画六社の作り出す映画が、全国7,600館の系列館へ送り出され、人々の心を癒し楽しませてくれたのだった。  振り返れば、昭和の三十年代は、日本人の生活、社会全体が、明治以来続いてきた地方農村を基盤とした社会から、近代産業社会へと大きく舵を切った境い目の時代だった。


戦前からこの時代までは、電柱さえうまく避ければ、そこで時代劇のチャンバラを撮ってもおかしくはない風景が、地方にはふんだんにあって、それゆえ映画各社のスタッフたちは、時代劇はもちろん明治以来の生活風景を撮るのに、地方のロケーションをさかんにおこなったものだった。

松竹の木下恵介監督は、北信濃の風景をこよなく愛し、自作のロケに度々使ったが、日本の地方の風景が急速に失われようとしていた昭和三十年代、『野菊の如き君なりき』を、全編北信濃を舞台にして撮った。小布施橋が、板橋から鉄橋に変わろうとする寸前の時代であった。名物だった山王島の板橋のたもとの大柳が映画冒頭に登場して、郷土の人々はどよめいたものだった。

白銀城の対決  やがて高度経済成長の時代がはじまり、町や村の姿も急速に変貌してゆく。志賀高原がレジャーのメッカとして脚光を浴び、十二沢、丸池、発哺、熊の湯、横手、奥志賀へと開発が進んでゆく。

これに目を付けた日活が、売り出し中の石原裕次郎や浅岡ルリ子主演の作品を、志賀高原を舞台にして作り売り込み、そのロケーションに、私たち地元の映画館も、エキストラその他の調達で協力した。今も裕次郎や北原三枝らとともに写っているアルバムが残っている。
 長野電鉄の電車が、都会からのスキー客で連日満員となったのもこの時代である。


急速な経済成長、レジャー産業の多角化、そして何よりも各家庭へのテレビの普及は、落ち目の映画産業に決定的な一撃を与え、各都市町村から映画館は消えてゆき、遂に昭和41年、松北劇場も閉館に追い込まれた。
 昭和39年の東京オリンピックを契機にして、都市も地方も経済成長の波に押され、社会は急速に変貌を遂げていった。世にいうテレビ時代、クルマ時代の到来である。

敗者となった映画産業の一翼にあった者にとってはご難の時代、大げさにいえば「一家心中も覚悟」の心境だった。しかし自分を離れてみれば世は「高度成長の時代」。ということは、やる気があり、見通しがあり、必要な資金さえあれば、銀行が後押ししてくれる時代でもあったのだ。
 幸いにして八十二銀行が隣組だったこともあり、制度資金や土地探しに力添えをしてくれ、様々な困難があったものの、当時は畑地で道も未舗装の時代だったが、銀行裏手に、これはと思う土地150坪をみつけ早速調査にかかった。1970年のことだった。五十年後の今日、当時の写真を見ると、あらためて町の変貌の姿がまざまざと分かり感無量のものがある。
「味郷」開業  さて土地入手の算段に入って、いざ調べてみると、なんと所有主は、新潟との県境にある栄村の人ではないか。これには驚いた。が、ともあれ行ってみなければと県境をめざした。飯山を過ぎると千曲川は、両側から迫る山峡の底を流れてゆく。谷は次第に狭くなってゆくが、その谷へ落ち込む山の狭い傾斜地に、十数軒の小部落があり、その中の一軒がめざすHさんの家だった。

 どこの誰とも分からぬ若造が訪ねてきて、いきなり土地をゆずれと言われても、話になるわけもなし、まずはHさんと小布施の縁などいろいろ話を聞くうちに、意外な接点も見えてきた。Hさんはこんな辺境の部落にいるが、手広く活動している事業家で、森林組合も主宰していて、営林署の許可もとって『かやの平(だいら)』の伐採権を取得、高崎方面の家具会社などへ、特殊な用材を大きく調達しているらしかった。このため、雪の少ない小布施方面の道沿いに、材木の貯蔵所となるような広い土地を探しているのだという。自分が目指す土地の持ち主が、意外や、より大きな土地探しをしていると分り、帰宅し八十二銀行支店長に報告。

「運のいい時はおのずと道は開けるものか、その時銀行に勤めていたS君の実家が、延徳田圃の県道沿いにある500坪以上の土地を売りたいのだという。願ったり叶ったり、早速、松北劇場食堂の二階座敷へ三者相寄り、めでたく三者の手打ちとなった。まこと土地の売り買いには縁談に似たようなところがあるなァ、と思ったことであった。
 後年Hさん一家は県境の家を引き払って、高山村へ越され、息子さんの縁組もこちらであって、事業は順調に発展、延徳田圃の県道沿いには今、立派なゴルフ練習場が完成され賑わっている。

前店主・湯浅 勲

店舗写真